将来に対する漠然とした不安がある。自分は何もせずに日々を漫然と過ごしている。他人に、自分よりもうまく生きているなあと感じさせられた時、強く劣等感を感じる。自分は生きていていいのかと感じてしまう。希死念慮がつきまとう。自分にはなんの取り柄もなく感じてしまう。正確には、良いところもあるのかもしれないが、それには市場価値がない。文章が上手い人、人づい合いが上手い人、学問的知識が深い人、説明がわかりやすい人、勉強意欲に溢れている人、そういう人を見ると自分もそうなりたいなあという思いが芽生える。しかし、頑張ろうとは思えても、それが行動につながるのはまれだ。自分の世界には自分しかいなくて、なら頑張る必要もない。そう感じてしまう。誰かのためにと言える時、人は一番頑張れるんじゃないかな。私は何もできない。いや自分としてはできていることもあるんだけど、社会的に見たら何もできないに等しい。でも唯一、人よりできることがあって、それは勉強だった。でも勉強なんてできたところで特に意味はない。この社会はちょっと変だから、勉強ができると良い大学に入って、その瞬間はそれなりの評価を得られる。でもそれはまやかしで実際それが直接に生活に結びつくわけでもない。いや、自分が社会と繋がりを持たなさすぎて、学歴が生活とどう関連しているのかを知る機会がないだけかもしれない。とにかく、私は何もできない。家の外に一歩出るのでも大仕事である。いわゆる引きこもりというやつだ。正確には引きこもり予備軍かもしれない。それでも大学には行ける。大学に行って講義を聞くだけならそこまで苦労はない。だから、前期はそれなりの成績が取れた。留年はしなさそうで、それが事態を一層厄介にしている。ああ、私は文章が下手だなあと、今ふと思った。ふと思った感想を人に話したりすることもなく、捉え損ねながら生きていると、アウトプットがどんどん下手になっていく。空っぽな人間なので、inputだけは得意だ。得意とは行っても、時々思い出したように勉強しているだけなので、知識はひどく浅い。やっぱり自分が自分にとって自分すぎる。この言葉が自分にとっては意味があるのだが、外から見たら謎だろう。自分も他者も世界も全ては偶然に存在しているにすぎない。勉強が得意な彼も、自己主張が激しいあの人も、見た目が麗しい彼女も、どの人も皆、偶然にそうなったにすぎない。しかし、自分だけはそうではない気がしてしまう。あくまでも気がするだけで、言葉の上では自分だって偶然性の中にあるのはわかっている。だから、不遇のうちに一生を終えることになるのが仮に自分だとしても、それは、偶然の定めなのだから、大した意味があるわけではないのだが、私はそんなことは受け入れられない、気がする。なんで自分が、と思ってしまう。自分だけは、となってしまう。自分はどうしようもなく自分で、自意識が強い。人の目を気にしすぎる、という言葉がある。私は社会的に表現すればそのような性格になるだろう。しかし、その実気にしているのは、自分からの目なのである。自意識が強いから、周りの目を作り出してしまうのである。周りから見た自分というものにすごく敏感なのだ。どう生きれば良いのかわからない。わからないから焦っている。焦りがどこにも向かっていないことに不安を感じている。もっと深刻なのは、不安や焦りを肯定できないことなのかもしれない。生きている。そのことだけは確かで、動かしようのない事実で、そこには希望が見えるという人もいるけれど、今この瞬間は絶望を感じる。