本が読めない。勉強もできない。今日も布団の中で、何もできない自分を責めながら息を吸ったり吐いたりしている。今、この瞬間にも自分の市場価値が目減して行っているのを感じている。大学に行きたくないなあ、なんて考えている。人に会うのが怖い。近くのスーパーに行くのさえ億劫になってしまった。特に、本が読めないというのが深刻だ。自分の人生に向き合うだけの強さはないのに、他人の人生を覗くだけの余裕もない。何もかも終わりだと思って、何にも手がつかない。どうしてこんなふうなんだとかなんとか思ってたら1日があるいは1週間が過ぎていた。読みたい本はたくさんあるし、借りた本は返さなきゃだけど、それをするだけの気力はなくて、ああ鬱なんだなってわかる。病院とかにも行っていないので、このまま奈落に落ちていくだけである。辛い。怠惰だ。だるい。どうしても何もできなくて、考えもまとまらなくて、終わっている。はあ。単位取れるかな。もう、良い成績を取るみたいなことはやめた。単位が取れるギリギリを狙っていくしかない。留年したら、それは仕方がない、良い経験だ、なんてうまく自分を納得させている。ああ、好きになるとはどういうことなのだろう。それが対象を深く知るということと関係していないことは確かに思える。私は、Vtuberの湊あくあさんのことが好きであると、自分では認識しているが、その実、そのYoutubeチャンネルのメンバーにはなっていないし、グッズとかも一度も買ったことはないし、なんなら配信もほとんど見ていないし、誰かに彼女のことが好きだと語ったこともない。そして、今後それらをする予定はない。では、私は一体全体、何が好きなのか。ただ、惰性で彼女のYoutubeチャンネルを登録しているのを、「好き」と表現しているだけなのか。あるいは、私は、『灼眼のシャナ』という作品が好きだ。小学生の時に読んで以来、好きだなあと思って生きてきた。でも、今になって読み返すなんてことは一切しないし、アニメも全く見ていないし、関連商品を買おうとも思わない。ただ、小学生の時、ブックオフで買ったものを全巻読んで、それでなんかいいなと思って好きだと感じているわけだ。その実、内容もほとんど覚えていない。どこがいいとか説明できる自信もない。ただ、途中で悠二が敵側に回って、そこで、ふとああこれは、悠二が主人公でシャナがヒロインだと思っていたけど、実は、二人ともが主人公だったのだなとか気づいたところが、どことなく好きだ。そこには成長というものが描かれていたと思う。しかし、それでいいのかもしれない。覚えている、というのは過去を現在の視点で縛ることだ。過去を真に救済するとは、それを忘れ去ることにおいて他ないのだ。なぜなら、過去とは現在のためにあるわけではないから。そんなようなことが最近読んだ本に書いてあった気がする。だから、私はこれからも多くを忘れていくし、それを悲しいことだとは思わない。それでも、何かを記憶するとか、何かを好きになるとか、何かを欲するということが、時々、たまらなく不思議に思えてくる。

生きるというのはとやかくしんどい。過ぎ去っても過ぎ去ってもまた次の生が襲ってくる。今はすぐに過ぎ去ってしまうというけれど、実際は全てが今だ。今だけが永遠と繰り返される。今とは違う様式で今が来ないものかと思ってしまう。はあ、生きるのがだるい。みんなはよくうまく生きていられるなあと感じる。活動能力が高い。私はすぐに息が切れてしまう。なんでもないことなのに。そのくせ、求める基準は高いから、苦しんでいる。やっぱり、私はチヤホヤされたいんだ。人からの承認が欲しくて今まで生きてきた。そうだよ。そしてその承認が空虚でなければないほど良いのだ。しかし、空虚でない承認とはなんなのか。私の肩書きとか才能とかそういうくだらないことに対する承認は空虚だ。でも性格とやらはますます空虚だなと昔から思っている。そうなると、私に対する真に内実のこもった承認とは、別に私に対するものでなくてもよかった承認ということになる。それは偶然だ。誰かにとっての特別でありたいという気持ちを突き詰めていくと、別に私でなくても良いということになる。それでも私なんだ。つまりは、私じゃなくてよかったのに私なんだっていうのが一番深いところの承認だと思う。はあ、承認されたい。真理を得ることよりも、誰かから認められることの方が私にとっては大きくて、それが私を苦しめているのかもしれない。生きるのが下手すぎて、承認は何も得られない。承認を欲しがっているとも思ってくれない。はあ、誰か驚きをください。私を駆り立てるような驚きを、真理を知りたいと思わせてくれるような驚きを。私は私についてしか興味がないので、人に点で関心がいかない。だから会話も続かない。今まで、人に対して、その人の個人的なことについて質問したことが何度あっただろうか。どうでもいいんだ、他の人がどうやって生きていようと。だから、常に他者を手段としてしまっていて、カント先生の言葉は守れていないなと、ちょっと可笑しくなる。また、ちょっと頑張る時まで、もう少しだけ病んでいるか。

勉強しか取り柄がないのに、勉強すらしていない。そろそろ大学も始まるというのに。講義に関連する勉強だけでもしとかないとなあ。興味・関心の強いものから始まるしかないんだけど、それすらなかなか重い腰が上がらない。勉強を頑張れば、なんか救いがあるのかもしれないということにわずかな希望を見出しているにすぎないからなのかもしれない。なんとなく知が私を救ってくれる気がして、でもそれを信じきれていないところの方が大きくて。結局、怠惰な性格のくせにそれを補うような社交性とかがないっていうのが終わってる。まともな社会的能力があれば、勉強ができるというだけでそれなりの暮らしが望めるのになあという、手の届かないものを夢見る気持ち。でもまあ明日ぐらいは頑張るかなあ、、、って毎日思っているかそれ。とりあえず、今一番意欲のある、英語の勉強でもしてみようかな。可能なら今日から。現在の自分にできることをやるしかない。

将来に対する漠然とした不安がある。自分は何もせずに日々を漫然と過ごしている。他人に、自分よりもうまく生きているなあと感じさせられた時、強く劣等感を感じる。自分は生きていていいのかと感じてしまう。希死念慮がつきまとう。自分にはなんの取り柄もなく感じてしまう。正確には、良いところもあるのかもしれないが、それには市場価値がない。文章が上手い人、人づい合いが上手い人、学問的知識が深い人、説明がわかりやすい人、勉強意欲に溢れている人、そういう人を見ると自分もそうなりたいなあという思いが芽生える。しかし、頑張ろうとは思えても、それが行動につながるのはまれだ。自分の世界には自分しかいなくて、なら頑張る必要もない。そう感じてしまう。誰かのためにと言える時、人は一番頑張れるんじゃないかな。私は何もできない。いや自分としてはできていることもあるんだけど、社会的に見たら何もできないに等しい。でも唯一、人よりできることがあって、それは勉強だった。でも勉強なんてできたところで特に意味はない。この社会はちょっと変だから、勉強ができると良い大学に入って、その瞬間はそれなりの評価を得られる。でもそれはまやかしで実際それが直接に生活に結びつくわけでもない。いや、自分が社会と繋がりを持たなさすぎて、学歴が生活とどう関連しているのかを知る機会がないだけかもしれない。とにかく、私は何もできない。家の外に一歩出るのでも大仕事である。いわゆる引きこもりというやつだ。正確には引きこもり予備軍かもしれない。それでも大学には行ける。大学に行って講義を聞くだけならそこまで苦労はない。だから、前期はそれなりの成績が取れた。留年はしなさそうで、それが事態を一層厄介にしている。ああ、私は文章が下手だなあと、今ふと思った。ふと思った感想を人に話したりすることもなく、捉え損ねながら生きていると、アウトプットがどんどん下手になっていく。空っぽな人間なので、inputだけは得意だ。得意とは行っても、時々思い出したように勉強しているだけなので、知識はひどく浅い。やっぱり自分が自分にとって自分すぎる。この言葉が自分にとっては意味があるのだが、外から見たら謎だろう。自分も他者も世界も全ては偶然に存在しているにすぎない。勉強が得意な彼も、自己主張が激しいあの人も、見た目が麗しい彼女も、どの人も皆、偶然にそうなったにすぎない。しかし、自分だけはそうではない気がしてしまう。あくまでも気がするだけで、言葉の上では自分だって偶然性の中にあるのはわかっている。だから、不遇のうちに一生を終えることになるのが仮に自分だとしても、それは、偶然の定めなのだから、大した意味があるわけではないのだが、私はそんなことは受け入れられない、気がする。なんで自分が、と思ってしまう。自分だけは、となってしまう。自分はどうしようもなく自分で、自意識が強い。人の目を気にしすぎる、という言葉がある。私は社会的に表現すればそのような性格になるだろう。しかし、その実気にしているのは、自分からの目なのである。自意識が強いから、周りの目を作り出してしまうのである。周りから見た自分というものにすごく敏感なのだ。どう生きれば良いのかわからない。わからないから焦っている。焦りがどこにも向かっていないことに不安を感じている。もっと深刻なのは、不安や焦りを肯定できないことなのかもしれない。生きている。そのことだけは確かで、動かしようのない事実で、そこには希望が見えるという人もいるけれど、今この瞬間は絶望を感じる。