生きるというのはとやかくしんどい。過ぎ去っても過ぎ去ってもまた次の生が襲ってくる。今はすぐに過ぎ去ってしまうというけれど、実際は全てが今だ。今だけが永遠と繰り返される。今とは違う様式で今が来ないものかと思ってしまう。はあ、生きるのがだるい。みんなはよくうまく生きていられるなあと感じる。活動能力が高い。私はすぐに息が切れてしまう。なんでもないことなのに。そのくせ、求める基準は高いから、苦しんでいる。やっぱり、私はチヤホヤされたいんだ。人からの承認が欲しくて今まで生きてきた。そうだよ。そしてその承認が空虚でなければないほど良いのだ。しかし、空虚でない承認とはなんなのか。私の肩書きとか才能とかそういうくだらないことに対する承認は空虚だ。でも性格とやらはますます空虚だなと昔から思っている。そうなると、私に対する真に内実のこもった承認とは、別に私に対するものでなくてもよかった承認ということになる。それは偶然だ。誰かにとっての特別でありたいという気持ちを突き詰めていくと、別に私でなくても良いということになる。それでも私なんだ。つまりは、私じゃなくてよかったのに私なんだっていうのが一番深いところの承認だと思う。はあ、承認されたい。真理を得ることよりも、誰かから認められることの方が私にとっては大きくて、それが私を苦しめているのかもしれない。生きるのが下手すぎて、承認は何も得られない。承認を欲しがっているとも思ってくれない。はあ、誰か驚きをください。私を駆り立てるような驚きを、真理を知りたいと思わせてくれるような驚きを。私は私についてしか興味がないので、人に点で関心がいかない。だから会話も続かない。今まで、人に対して、その人の個人的なことについて質問したことが何度あっただろうか。どうでもいいんだ、他の人がどうやって生きていようと。だから、常に他者を手段としてしまっていて、カント先生の言葉は守れていないなと、ちょっと可笑しくなる。また、ちょっと頑張る時まで、もう少しだけ病んでいるか。